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だれも望まないこと。その一 [自問自答]

 素朴な疑問。本当は戦争など誰もしたいと思うものはいない。平和な世界にしたい。しかしなぜ戦争はなくならないのか。平和な世界をつくるという最終目的への到達方法を巡って対立しているのだろうか。そうも思えなくはない現実がある。

 でも「戦争などしたくないのだが、。国をまもるため、平和を守るために戦争はなくならない」は本当にそうなのだろうか。

 

 もし多くの人間に原因と結果を予測する能力があるなら、おそらくこんな悲惨は避けられるのではないかと思う。


 夏の今の時期になると死と破壊が世界を覆った第二次世界大戦、日本にとって太平洋戦争が終わった時だから、戦争に関する報道がおおくなる。先日もNHKが放送した「駅の子」や「悪魔の兵器原爆はなぜ開発されたか。科学者の心の闇」「日本はなぜ焼き尽くされたのか」など、、、当時の政策関係者、軍指導者、マンハッタン計画に参加した科学者たち、市民の証言、多くの記録や未発表資料なども含め丹念に調べた事実は私には衝撃の連続でした。

 戦後観た映画は戦争を描いたものが多かった。戦争の悲惨は知っていると思っていましたが、本当は知らなかった、まだまだ知らないのですと思う。


 小学校の時の同級生の中には田舎に疎開してきた級友が何人かいた。ひどい吃音の人もいた。彼らがどんな思いで日々を送っていたか、その頃はあまり考えなかった。 

 仕事について一緒に仕事をした人の中には東京の大空襲を逃げて生き残った友人、一人助かって親戚に預けられて育った人、田舎の遠い親戚に兄弟わかれわかれに預けられて、預けれた先から後に逃げた人など、それぞれに戦争の傷を負った世代だった。

 ぼろぼろの服ともいえない布切れをまとったような子供がよく同じような恰好の大人に手をひかれて物乞いに歩くのを見かけた。そういう記憶はあったが、「駅の子」の映像は私の想像を吹き飛ばしてしまう。

 朝日新聞にも載った金子とみさんの証言。

 東京都江東区で育ち、母の郷里である山形に疎開。そこで父が死去。終戦の年に空襲で母をうしなう。当時15歳の金子さんと小学4年の弟、小学2年の妹が残される。東京に戻って働こうと自宅を目指したが、東京は一面の焼け野原。3人は上野駅の地下道で寝起きする「浮浪児」になった。その過酷な体験を語る。

「本当にたくさん死んでいったんですよ、子供が」

 弱い順に死んでいった。「政府はおにぎり一つくれなかった、ウソはもうしません」。

 地下道の暮らしは数か月続いたのち、弟と妹は両親の郷里に別々に引き取られ、金子さんは住み込みの女中になった。

 「戦争さえなかったら」「ひどい言葉ですけどね、もし戦争するっていう人が居たら、ぶっ殺してやりたい。そんな気持ちです」


 なぜ戦争をするのか。なぜ破壊と死の戦争をするのか、、、。


 次回になぜ原爆は広島と長崎に投下されたのかの検証報道から考えたいと思います。

 

 


 

 

 

 



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混沌のなかで

 「考える営みの再生」(ラディカルに哲学する)という本のはじめにこんなくだりがあります。

 考えたことのない人はいない。何か困難にぶつかったり、苦しんでいるとき、或いは自分の道を拓いていかなければなりないときなど、、、。しかし考えたって苦しさが増すばかり、考えても仕方がない時それについて深く考えることはやめて、現実の流れにまかせる。しかし、現代という時代は確かに20年前より物質的に便利になっているようにも見えるが、資源の莫大な浪費や経済格差による貧困だけでない社会の内部で私たち自身がすさまじいばかりの荒廃としか呼びようのない危機に向かっていることを感じる。、、、深刻なのはこうした問題が今の日本の深い構造、生活の仕組み全体とむすびついていると直感されることだ。この苦しみを本気で乗り越えようとすれば、私たちの生活の仕方そのものを本格的に吟味して何が問題かをとことん探ることがで必要なのではないか。時代の状況は根本的に考えることを要求しているのに、むしろ考えることへの衰退がどんどん進行しているようにみえる。


 考えても仕方がない。考えれば暗くなるばかり。そんな実感失望感わかります。しかし著者はそこで疑問を投げかけています。


 考えることは本当に暗くなることなのだろうか。

みんなで知恵を出し合って考え抜くことは、実は意外と楽しいことではないのか。仲間同士で自由に語り合う空間が奪われ、みんなが自分のことに汲汲としていることが思考の衰退を招いているのではないか。一人ひとりのかけがいのない思考の営みを尊重しながら、みんなでつながっていく文化を復興することが、考える喜びを復活させるのではないか。


 過去の理論や理性、思潮などを超えて社会が流動化している今、社会の構造、生活の仕組みそのものにかかわる苦しみを本気で乗り越えることが必要な時代になっている。それは痛感するところです。


 考えるということは個人、一人ひとりが考えることが基本だと思います。一人ひとり自分が「考える」が他と連動することが大切だと思います。その時ぶつかった問題は自立とか自律という問題、孤独と孤立の違い、善と悪、善と悪の違いはなにかなどでした。


 人が生きてこの社会に存在する基本のところにどんな約束、ルールが必要でしょうか。


 

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故人たち

 私の父は教師でした。父と兄は仲が良くなかった。兄が戦争から帰り、勤めていた工場が焼けて無くなり郷里に戻ってから、学校に勤めてはどうかという話が出たときも教師にはならないと断ったくらい教師について批判的でした。それらしい原因を色々考えることはできますが本当のところなぜだったのか、父にも兄にも本当のところを聞くことができませんでした。二人ともいまは故人です。でも二人を思い返すと気の毒で可哀そうだったとしか思えません。

 ほとんどの人が本当のことは誰にも伝えることなく、親子でも本当の気持ちを知らないまま生涯をおえるのですね。

 歴史が同じことを繰り返すのも、過去の経験が生きないのもそのためでしょうか。

 そんなことも理由の中にはあって私は中学卒業の時、寄せ書きに独立と書いて、高校を卒業と同時に自分には生家はないくらいに覚悟していました。

 自立という言葉はその時代はなかったように思います。独立は今でいうなら自立のことですね。自立は孤立では無いという勇気をどうしたら持てるのでしょうね。

 


 テレビのある番組で語られていたイタリアのタクシードライバーの言葉印象にのこりました。


 今の時代、みんなが孤独なのがよくわかる。よく耳を貸すことが大切だと思う。


 そして彼はこんな言葉で終わっていました。家族が大切だったことを愛していたことを伝えて人生を終わりたい。

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環境について。 [雑感]

 時代を考えるのは人と環境ということを考えていたからでした。

何かの事件や犯罪などが大きな問題になってニュースになったりすると私はその人がどんな環境で育ってきた人か、どんな人とのかかわりの中で成長してきたのだろうかが気になります。事件や犯罪だけではありません。人はみな環境の中で育つ生き物と思います。環境からの影響を受けずに育つことも生きることもできない存在と思います。生まれた子供にとっての最初の環境が親との関係、親にとっての環境でしょう。

 子どもはそれらの諸要因の影響を受けながら、次第に自分の意思を育て、環境からの影響を自分の意思で選択していくようにもなりますが、どこまでいっても地球という自然環境、時代という制約から離れた存在ではないことに気づかないわけにはいきません。

 そんななかで最近の新聞切り抜きの中にこんな記事があり、そうだなと勉強になったことがありました。

 そのひとつ。

 朝日新聞の耕論にあった小林りんさんの言葉。

 小林りんさんはUWC ISAKジャパンの代表理事。

 学校を作ったのは「変革する人」を育てたかったから。「変革」といって大げさなことではない。生徒が話し合う場を作るようにするだけ。事実を共有することで、理解が統一されていくことを学ぶ。その過程で、生徒たちは自らを見つめることになり、自分は何を当たり前としてきたのか、何が疑問なのか、何が得意なのか問い続ける。其れには「鏡」が必要になる。アイデンティは鏡となる多様性の中でしか見つからない。そうした作業の体験の上に次の挑戦が生まれる。大切なのは「当たり前」から脱して真実と向き合い、行動する力。


 その二

 同じ朝日の経済季報  松井彰彦氏「依存こそ自立のプロセス」から。


 自立とはそもそも何か。誰にも頼らないことが自立だとすれば、この世で自立している人は一人もいない。人は一人では生きられないからだ。私たち現代人は自分でできることは極端に少ない。衣食住、そのほとんどをだれか他の人に頼って生活している。

子どもと大人の違いは、他に依存しているか否かではなく、親など特定の誰かに依存しているか否かだといっていい。子どもから大人へ向かプロセツはまさに依存先を増やしていくプロセスに他ならない。親という命綱のような太い依存先から社会・市場という細かい網の目のような依存先に変容していくことだ。そして、その網の目を紡いていくのはあなた自身。何かにだれかに頼ることは悪いことではない。それどころか、バランスよく頼ることこそ自立に必要なものである。


 自己責任と人に頼らないで自立しなさいは親ががいつも教えていることかもしれません。

自分もそればかり教えてきたのは間違いだったように思います。人とともにではなく、自力は人から学ぶではない自己責任の圧力と自信のなさやその裏腹の同調行動の強さにつながるのかもしれないと思います。

 

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ショックと疑問。悲しみの先になにがあるか。進歩について考える。

 必要なくなったものを整理してすっきりしたいとあと片付けを考えながら、遅々として進まず周囲は「無理でしょう」などと思っているらしい。でもわたしは諦めたくない。と言っても、衣類の処分をしながら、戦後間もないころを思い出す。母の着物や帯などは次々娘達の衣類に変わった。それも尽きてしまって無駄なものなどなかった経験がガラクタばかりなのにもったいないにつながってしまう。整理できないことが次の無駄につながることは重々わかっているので、猛暑の中だが頑張るほかない。

 こんな書き出しで始めたのはわたしは生きるために必要なものはそれほど多くはないのではないだろうかと思っているからです。物の多少、質の良しあしなど問題になるのがわからないわけではありませんが、命を維持する水、空気、食、住まいなどがあればほかに見過ごされやすい大切なものが「こころ」と思います。命への肯定感、生きていることは良いことという心の問題です。今日の文明や進化の問題を考えるとき、この心の問題を抜きにして考えることはできないのではないかと。


 大きな問題になり始めている異常気象や自然災害、戦争の脅威と生存競争という名の戦争の影から、人は開放されより良い方向へ、望ましい方へと変わるのではないかとそんな希望をずっと持ち続けてきたのですが、そういう方向へ進むとばかりは言えない現実を目にしているように思います。 


 

 最近問題になっている杉田水脈氏の「JGBTのカップルは子どもを作らないから「生産性」がない。彼らのために税金を使うことに賛同はえられない」という発言などは安倍総理はじめ安倍周辺の考え方、また社会に広く存在する生産性の有無で人々を区分けする、進歩を生産性の向上と考える人びとによって普通に支持され、それへの同調がひろがっているように思います。

 生産性の向上は目標の一つではあっても、それ自体が人間にとって他の何ものをも犠牲にしてもよい唯一のものではないと同時に命について人としての可能性や生産性のあるなしを誰かが図れるようなものではないと思います。

 杉田さんの発言は人権に対するひどい無知、偏見で国会議員として見識が疑われます。


 金融危機の翌年の1998年以来年間自殺者数が3万人越えに、その理由が経営難や過労、パワハラ、社内いじめ、社会の生きづらさ、息苦しさなど。自殺対策基本法ができたのが06年。子どもの虐待も子どもの育ち、命につながる深刻な問題です。

 誰もが安心して暮らせる社会を目指して努力していることにたいして生産性で人間の価値を測る考えは人間性へのあまりの無知としか思えません。

 すべての命を命として分けない一即多、多即一の考え方の反対に主観や自己愛や欲望に基づいた差別や選別が破壊と死の誤りを繰り返した歴史があり、今も繰り返されている現実、進歩とは何か、改めて考えてみたい問題ではと思います

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視点を考える

 一人一人って、時間的にも距離的にも際限もない宇宙空間に漂う微細な点のようなもの。点であるが同時にすべての中の一なのだ。言葉を変えれば世界は二つある。実際の世界と個人が認識するに過ぎない世界のふたつ。現実を生きるうえでは、小さな個に過ぎない自分から世界を確定していく以外にないのではないかと思う。どんなに小さな存在でも主体的にしか生きることはできないのだと思う。

  

 何年振りかで街頭集会に参加しました。陸上自衛隊木更津駐屯地の定期整備基地化と自衛隊が購入するオスプレイ五機を暫定配備する方向で調整していることについて反対抗議する集会が地元で行われたのです。陽射しの強いアスファルトの通りを十数分歩いて会場に近くなると警察官の姿が多いことに気がつきました。その理由はほどなくハッキリしました。


 街頭集会は久しぶりの参加です。街頭行進デモとか集会とか一度も参加したことがない、関係もなかった、あるいは賛成でないという人もたくさんいらっしゃることと思います。全国津々浦々デモや集会が行われていた何十年まえころでも大半の人はデモと関係なかったのではと思います。わたしはそのころ何度も参加していました。行動ばかりしていたといっていいくらいです。

 右翼の街宣車が数珠つながりになって走行していましたので、万一の衝突などの事態を警戒していたのだろうと思います。車のナンバーを見ると関東一円から集まっていたらしく、延々とあとからあとから続き、スピーカーから流れる大音量の音があたりを圧倒していました。

 横断の信号がとまっていたので何を言っているのか聞いていました。

 どうやら、オスプレイは中国共産党が日本を侵略するのを阻止するためのものである。それに反対する日本共産党は国賊だから日本から叩き出せ。警察は何を守っているのか、デモを守るために警備しているお前らは何も知らない、勉強もしないバカである。上の偉いやつらの言う通りにしないで、一人ひとり考えろ。だいたいこんなことを言っていたようです。

 警備の警官たちへも口ぎたない罵倒威嚇が休むことなく続きます。集会の参加者は高齢の人が多い。たかだか二千人くらいのデモにこんなに多くの街宣車が集結してきているのも異様でした。

 自分たちはしっかり勉強をして正しい判断をしている。お前らは何も知らないバカである。勉強をしろ。絶対ともいえる正しさへの自信、それを押し切るやり方、安倍総理周辺の進め方と似ているなと思いました。


 年内に決定される新たな防衛大綱・中期防衛力整備計画に向けて、自民党が政府にした提言(5月25日付)はNATOが防衛費2%を達成することを目標にしていることを参考にしつつ、必要かつ十分な予算を確保することをもとめているようです。GDP2%という数字は過去最高になった今年度軍事費5兆1911億円の2倍という額です。

 オスプレイはいわくつきの兵器で日本にやってくるとはとんでもないと思っているうちに、いつの間にか「MV22」12機が岩国に搬入され、のち普天間基地にさらに12機増えて24機普天間飛行場に配備されています。日本の空をアメリカのオスプレイが飛ぶのが普通になりました。日本政府も17機導入を決めています。アメリカからの高額兵器の大量購入は急増し、購入にあたっては取得価格が高騰、アメリカ国内での調達価格より4割も高く、それらの維持修理などを含めれば、日本の自衛隊はアメリカ軍事産業の思うままの食い物になっているように思えます。その理由が北朝鮮、中国、ソ連を相手にした「戦後最大の危機的情勢の変化」です。

 危機は作られているのでしょうか。危機を歓迎している人達がいるように思えます。すくなくとも危機がなくなれば困る人達がいることはたしかでしょう。

 人間は善だなどと馬鹿なことを言うつもりはありません。何の野心もなく中国もソ連も北朝鮮も手放して信頼できるというつもりはありません。アメリカも同じでしょう。ぎゃくに愚かしいことをする危険がいつでもあるのが人間だからこそ、細心の注意と努力をはらって世界の危機をなくす努力をしてほしい。国民生活の犠牲の上に軍事予算を増大させ軍需産業をさかんにして平和が守れるなんてわたしには逆立ちしているようにしか思えません。本当の盾と矛は兵器ではないと思います。





 


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足元から

 これからと考えると。今はまだ何とか元気だけれど、、、一日一日何をするか。気持ちを         整理してみました。足元からやりたいことがいくつか。

  足元がなんといっても大事なんだなとこの年になって痛感しているところです。遅すぎでしょうといわれそうですが。

 同じ職場で一緒になったAさん、日本で一番難しいといわれる東大の卒業で才色兼備、欠点がないような人でしたが、彼女があるとき小さなことができなくて大きいことはできないといっていた一言を鮮明に思い出します。大きなちがいになるですね。

 昔は土台が大事なんだ、基本がしっかりしなくちゃだめだと叱ったり、注意する大人は結構周囲にいたのだと思うのですが、私はあまり親からそう言われたような記憶がありません。戦中、戦後でそれどころではなかったのかもしれません。もっと意識して教えられていたら、それが生き方の基本にずっとなっていたのではと思うのですが、自分が親になってもただ追われていたなあと感じます。

 職人さんや農業をする人などは土台の大切さをよく知っているのでしょう。良い土壌をつくりしっかりした根っこを育て、風雪にたえる。しっかりした丈夫な根は周囲の環境、大人や社会の助け支えがあって可能なことです。

 日々伝えられる最近のニュースを見て日本は大丈夫なのだろうかと思います。

 土地に根を張って頑張る地方や問題をさきどりしたNPOなどがんばっているところもおおいようですが。

 基本が大切ということは漠然と誰でも知っていることなのですが、現実には抜けてしまうのですね。


 本の整理をしようと数日間本棚を眺めて何とか必要なくなったものを処分したいと頑張っていました。多い量ではないのですが関心のあるテーマに思い切り絞ろうと思っても処分できる本があまりありません。もともと関心があって買ったもの、読んでなかったり、また読み直したりしたいと思うものばかりです。いつか自分の疑問だったことをまとめたいと思います。自分以外に読む人がいるかどうかは問題ではなく自分のための答えをだしたいな。

 それに実現することはないだろうと二十年ほどまえにあきらめた夢でしたが形を変えて今もすっかりなくなったわけではないらしく、本の処分ができないでいます。


 健康管理頑張らなくちゃと思います。

 二年前に比べて4キロ増、体脂肪3キロ、体内年齢にいたっては5~6歳増だなんて。動脈硬化の検査では年齢相応でしたが、前回よりわるくなっていました。この数字、あきらかに生活習慣病のリスクが大きいと思い、一週間の食事や運動、天候状態などを記録して何が変動要因になっているかを実験することにしました。生活習慣病って老化と同じ、そして全身病なんですね。

 健康番組はよく見るのですが、どうかすると情報がまちまちでときに、なぜ太るかについては、肉食や牛乳が日本人に合わないという意見もあれば、炭水化物の過剰摂取がよくないという見方まで、見解が反対のこともあったりしてどうなのかなと迷います。特に年を取ると太りやすく、体重も減らしにくい。

 血糖値の急速な上昇が肥満の原因という見方を先日のテレビ番組でみました。


 そこで一週間の実験では主食のとり方をかえてどう数値が変化するかを調べてみることにしました。

 朝、昼、晩、一日に飲食したもの、歩いた数、体操、体重計の結果、体温、血圧などを記録したのですが、細かいところを忘れてしまったりしながら。暇人だからできることだし、ボケ防止にもなるかもです。


 体脂肪、体内年齢が増加し、筋肉量、基礎代謝が減少した日は×

 体重、体脂肪、体内年齢が低くなった日は〇 筋肉量、基礎代謝が増えた日も〇

 すべてで×の日とすべてが〇の日を比べてみると三食の主食のとり方のちがいがありました。

 食後の急速な血糖値の上昇を抑える工夫は有効のようです。体内年齢が3~4歳若くなったのは[わーい(嬉しい顔)]、やる気が出てきました。


 もう一つ実験の目的がこむら返りがなぜ起こるのかでした。どういうときに起こるか注意してみると急に動こうとして筋肉に負荷がかかるとき、例えば目が覚めて足をのばそうとしたときなどのようです。今日気が付いたのは筋肉のつりや硬直、疲れやすいと思ったときに多いようです。体重増加や体脂肪値を気にするあまり、肉などのたんぱく質が少なくなりすぎているのかもと思いました。

 肉類などのたんぱく質の減らしすぎも代謝を弱めるということを聞きました。主食のとり方とともに肉類がどう肥満と関係するのか調べてみようと思います。


 

 

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危機管理、自己責任の意味は? [自問自答]

 今朝の朝日耕論「シェアの未来」に大塚英志氏が「翼賛に通じる共有賛美」という記事をかかれています。


 ーーーそもそも「シェア」と「社会」は同義のはず。近代化の過程で、自由主義経済がもたらす貧困や格差の問題を「社会問題」と呼び、解決の責任が社会にあるという意味だった。社会とは本来、責任をシェアする場であり、シェアした責任を遂行するシステムが「国」。それが今は、格差も貧困も自己責任論がまかりとおっている。

 とても同感です。

 自己責任と考えることによって問題についての社会の責任が失われています。

 

 では自己責任についてどう考えるか


  私は自己責任はあると思っています。それは安全管理、自分を守ること、あるいは大切な他人を守ることをしなければならないと思うからです。それで安全管理ができるということではないのですが。

 以前、1.5から4で「自然の中に自由はない」の中で自問したことなのですが、21世紀の倫理のなかで柄谷行人氏が人は社会的な因果性の中のことで、「原因に規定されない純粋な自由などはない」「個々人は諸関係の所産でありながら、それを超越したかのようにふるまうことができる。認識しょうとする意思のみが自由である」ということを述べていらっしゃいますが、自然的社会的因果性をカッコに入れ、主体的であることによってのみ、自由や責任が生まれるのだろうと思います。


 社会的責任が個人の自己責任に転嫁され、社会的に弱者であるものが切り捨てられる現実の中で、なおかつ生きるためには自分を守る、他人を守る、生きること生かすことを探求し続ける外ないのではないでしょうか。

 「自由であれ、真に主体であれ」これは柄谷氏の本の中の言葉ですが、今一人ひとりに求められていることのように思います。

 

 

 

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強さ、弱さ、父性を考える。

 あまり書いていなかったことを書こうと思います。


  強さ、弱さや父性という問題。

 直近のニュースの中で強い衝撃を受けた二つの事件について。一つは親の虐待でなくなった五歳の船戸結愛ちゃんの事件、もう一つが6月9日新幹線の中で起こった男女3人暴行死傷事件です。


 前回も船戸結愛ちゃんの痛ましい死亡事件について書いたのですが、社会的な力を失っている親の虐待という家族の病理性の危機がどれだけ関係機関の中で理解され、連携されていたのだろうかということについて疑問を書きました。孤立化が進んでいる社会で一般の人ができることはすくないと思いますから、やはり一義的に対処しなければならないのは公的な機関だと思います。一つには人的不足ということが言われていますが、人的不足という現実を放置していることは許されない問題だと思います。人数だけでなく社会的重要性の認識が届いていないということが言えるのではと思います。NPOの人も言っていますが、親が結愛ちゃんとの面会を拒否した時点でもっと結愛ちゃんに直接会って問題がないか確認すべきだったと思います。

 船戸雄大容疑者と母の優里容疑者は香川で娘を虐待していたことが判っています。子どもを虐待してしまう親の病理、親の置かれている状況は簡単に解決する問題ではないのですから子供の保護支援同様親にも支援が必要で、そのためにどういうことが必要かが社会的課題になると思います。

 大事はないだろうという安心や忙しさの中で大丈夫と思いたい気持ちはわかりますが、人間を理解していない、解決できないでいる問題に目を閉じている冷淡ではないでしょうか。

 結愛ちゃんの命が奪われた悲しみは消えません。


 最近起こった新幹線内での死傷事件ですが、事件の経緯や犯人の小島一朗容疑者について、テレビなどの報道ですこし明らかになり始めています。

 事の重大さ、無実の関係ない人を殺傷する悪辣非道は許されない、絶対あってはならないこと、被害にあわれた方の気持ちを思うと言葉がありません。罪の深い行為であればあるほどなぜそういうことが起こされてしまうのかを考えなければならない。いつどこで被害者になるかわからない、自分に関係ない事件ではなくなっています。

 報道の範囲内でしか知ることはできないのですが、いくつかのことがとても気になりました。

 小島一朗容疑者は5歳で発達障害と診断されたと一部で報道されていますが事実でしょうか。中学では野球部に所属したが、いじめが原因で不登校になり、進路などを巡り父親と喧嘩して関係が悪化。家を出て、14歳から、母親が務める自立支援の施設で暮らし、そこから定時制高校に通っていたといいます。その後、名古屋の職業訓練校に入り各種資格を取得し、埼玉県の機械メンテナンスの会社に就職。職業訓練校での成績は優秀。就職してそこで人間関係がうまくいかず退社。約一年半前に母方の祖母が引き取り、養子になっています。父は実家を出てからの息子とほとんどあっていないそうです。

 私が気になったのは5歳で発達障害という診断がされていることです。どんな事情でそういう診断が出たのかはわかりませんが、5歳という年齢から考えると子供が受ける影響は大きかったのではないかと思われます。何か気になることがあって医者にかかったのかもしれませんがこの時の発達障害という診断が親と子の関係にどんな影響をあたえたのか、あるいは関係していないかもしれませんが考えてみることが必要ではないかと思います。

 秋山さと子さんのユング心理学を読むと外交的、内向的、さらに直観、感情、思考、感性などその働かせ方はそれぞれ固有で特異不得意個性がありますし、まして五歳という年齢は発達途中でバランスがとれているわけではない。発達障害などという診断を下すことに私は疑問を感じてしまいます。専門家でない何も知らない素人が言うことは間違っているかもしれませんが。

 さらに感じたのは親と子の関係です。子育てに悩むことは多くの人にとって特別ではないと思います。扱いの難しい子供、うまく理解できない子供、相性がよくない子などいろいろの子供がいますが、犯人の父も容疑者を変わった子だったと言っているので、父として難しいと思っていたのでしょうが、どんな子であっても親が手を放して見捨てられていると思うことはその子供の心に与える影響は大きいのではないでしょうか。親や周囲や社会が彼に対して扱いが難しいとか、否定的な感情を持った場合、その時点で彼の存在感は危機にさらされ、内省的になったり、自分を閉じたり、時には自己否定感がつよくなったりすることは考えられます。

 彼は何度か、あるいは何度も挫折を繰り返して自分への希望と否定の間で苦しみ、最後に自殺までどこかで考えていたようにみえます。

 報道によると職場での人間関係が理由で仕事をやめたころから自分から精神科に入院して医師に相談しています。

孤独でなおかつ孤立している場合、彼が対峙している世界は社会全体、自分自身さえも含みます。どこかでだれか社会とのつながりを見出す橋渡しができなかったのか悔やまれます。

 正義感が強くどちらかというと優しかったという小島一朗容疑者、彼は自分を裏切っていると思います。

 

 生きにくさの背景にあるものを考えることは日本の社会や教育、伝統文化を考えると同時に本人や家族が社会の中でどう生きるかの父性、強さや弱さの問題を自分の問題として考えなければならないことなのではと思います。

 












 

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言葉を探す 言葉にであう。 [自問自答]

 最近のニュース、新聞から


  わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい 

  

  つまって いるのです


  でんでんむしはある日「たいへんなこと」にきづく。


  このままではもう生きていけないと友だちに告げると、


  誰もが「あなたばかりじゃありません」と言う。

  

  でんでんむしは


 「わたしは わたしの かなしみを こらえて いかなきゃ ならない」


  と心に決めた。

             童話でんでんむしのかなしみ


    ( 朝日新聞  折々のことば   から)



      

  森友加計問題はもう幕引き、働き方改革法案、カジノ法案など、、、おそらくこれからの日本の将来に大きい影響を与えると思える重要法案、会期末が迫る中で、自公維新など一部野党の賛成で強行成立をめざしているようですね。疑問点、議論点が残るのですが、自公や維新など一部野党のもう議論は尽くされたという考えによって、自分たちが思う法案が成立していくのですね。挙句に党利党略と思える参議院議員6名増員する法案が突然提出され、今会期中の成立をはかるのだとか。この無茶ぶり正気を失っているのではと思うばかりの内容ですね。


 悲しい事件があとをたちません。


  東京都目黒区に住む5歳の少女が「もうおねがい ゆるして ゆるしてください」と書き残しながら親の虐待で死亡という事件が報じられました。


 東京に移る前香川県に住んでいた時、児童相談所が親の虐待を知って訪れているのは2016年9月からだということです。父親の船戸雄大容疑者は二度傷害罪で逮捕されています。


 この事件が明るみになって報道されてから、確かに「子どもを産む資格のない人間」「人間じゃない」「結愛と同じ苦しみを与えてやりたい」など父親への怒りが集まりました。私も何という親だと思います。人の心を持っているのかと思います。しかし、なぜこのように幼い命を虐待して殺してしまうようなことを親がするのか、そのことを考えなければこうした事件は後を絶たないと思います。

 香川で二度事件を起こした時、船戸容疑者は無職だったといいます。虐待に関する取材を続け「児童虐待を考える 社会は家族に何をしいてきたか」(朝日新書)の著者でもある杉山春が指摘するように社会的な力を失った親の、最も弱い者を標的にする家族病理にある家族が「何に苦しみ、どんな精神状態にあるのか、どんな支援があればよいのか」という視点がないのが今の社会ではないでしょうか。

 児童相談所も警察もこの事案を把握し、精神科の医者も知っていた、だが病理性のある家族への危機感が足りない、支援の方法もまだないに等しいことがまだいたいけな子供の命を守れなかったのだと思います。

 表面に現れた良い親か悪い親かだけをジャッジする社会では虐待はより発覚しにくく深刻化するということは確かだろうと思います。


 ニイルはいいました。暴力をふるう親も自分のことがわかっていないという意味のことをいっています。


 でんでんむしは自分の哀しみでもう生きていくことができないところまで来たことに気づきます。

 自分の苦しさを表現することばをさがします。

 そこで出会った言葉によってでんでんむしは悲しみをこらえていかなければと決意します。


 ほかにこんな報道もありました。


 神戸市立中学三年の女子生徒が2016年自殺、自殺をうかがわせる他生徒からの聞き取りメモがあったのに、市の教育委員会の支持でメモが隠蔽されたというニュース。

 子どもの声、命と向き合う教育があまりに鈍感、無責任なのではと思います。


 言葉をさがす 言葉に出会うことはとても大切なことなのだと思っています。

 幻冬舎社長の  の言葉

 適切な言葉を選べなければ、深い思考はできない。

 表現することはおろか、悩むことすらできない。

 人は自分の言葉を獲得することによって人生を生き始める。


 ああ、そうなのですねぇ


 


 

 


 


 


 

 

  





  



  最近のニュースから伝わってくることは失望や悲しみを通り越して絶望に近い気持ちにさせられます。人間はどこへいくの。こんなこと本当はあまり考えたくないのです。

「この辺で根本から考えないと日本という国がダメになる」という河合隼雄氏や林竹二氏など多くの人が数十年前に語っていた言葉を思い出します。

 戦後の七十年は自分が生きてきた時間でした。その間に変わってきたこと、感じてきたこと、そして今考えること。

 なぜかでんでんむしのかなしみが心にしみます。

 絶望に近い気持ちの中でも生きることは続くのです。




 音楽の世界に疎いので安室奈美恵さんについて名前は知っている程度で関心がふかいというわけではなかったのですが。昨日のテレビでのインタビューを聞いていて彼女は本当に素晴らしい人だ、確かにすごい女性だと思いました。今までになかったような人、そしてこれからの新しい世代の出現を感じさせられます。安室さんは本来は面倒くさい人間なのだそうですが「シンプルに」を考えているという。歌手としての活動も生きることだが、「生きること」が彼女の主眼で歌手をやめても生きることはかわらないと。不必要なものをどんどん除いて自分に大切なものをシンプルにという。質問者が世間的な価値にとらわれている質問と感じさせられました。

 何が大切で何が不必要なのか選択することは難しい作業なのだと思いますが、安室さんが選んだ先にこれからどんな世界がひろがるのだろうかと未知の世界を見せてくれるのではと思わされました。


 

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