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危機管理、自己責任の意味は? [自問自答]

 今朝の朝日耕論「シェアの未来」に大塚英志氏が「翼賛に通じる共有賛美」という記事をかかれています。


 ーーーそもそも「シェア」と「社会」は同義のはず。近代化の過程で、自由主義経済がもたらす貧困や格差の問題を「社会問題」と呼び、解決の責任が社会にあるという意味だった。社会とは本来、責任をシェアする場であり、シェアした責任を遂行するシステムが「国」。それが今は、格差も貧困も自己責任論がまかりとおっている。

 とても同感です。

 自己責任と考えることによって問題についての社会の責任が失われています。

 

 では自己責任についてどう考えるか


  私は自己責任はあると思っています。それは安全管理、自分を守ること、あるいは大切な他人を守ることをしなければならないと思うからです。それで安全管理ができるということではないのですが。

 以前、1.5から4で「自然の中に自由はない」の中で自問したことなのですが、21世紀の倫理のなかで柄谷行人氏が人は社会的な因果性の中のことで、「原因に規定されない純粋な自由などはない」「個々人は諸関係の所産でありながら、それを超越したかのようにふるまうことができる。認識しょうとする意思のみが自由である」ということを述べていらっしゃいますが、自然的社会的因果性をカッコに入れ、主体的であることによってのみ、自由や責任が生まれるのだろうと思います。


 社会的責任が個人の自己責任に転嫁され、社会的に弱者であるものが切り捨てられる現実の中で、なおかつ生きるためには自分を守る、他人を守る、生きること生かすことを探求し続ける外ないのではないでしょうか。

 「自由であれ、真に主体であれ」これは柄谷氏の本の中の言葉ですが、今一人ひとりに求められていることのように思います。

 

 

 

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強さ、弱さ、父性を考える。

 あまり書いていなかったことを書こうと思います。


  強さ、弱さや父性という問題。

 直近のニュースの中で強い衝撃を受けた二つの事件について。一つは親の虐待でなくなった五歳の船戸結愛ちゃんの事件、もう一つが6月9日新幹線の中で起こった男女3人暴行死傷事件です。


 前回も船戸結愛ちゃんの痛ましい死亡事件について書いたのですが、社会的な力を失っている親の虐待という家族の病理性の危機がどれだけ関係機関の中で理解され、連携されていたのだろうかということについて疑問を書きました。孤立化が進んでいる社会で一般の人ができることはすくないと思いますから、やはり一義的に対処しなければならないのは公的な機関だと思います。一つには人的不足ということが言われていますが、人的不足という現実を放置していることは許されない問題だと思います。人数だけでなく社会的重要性の認識が届いていないということが言えるのではと思います。NPOの人も言っていますが、親が結愛ちゃんとの面会を拒否した時点でもっと結愛ちゃんに直接会って問題がないか確認すべきだったと思います。

 船戸雄大容疑者と母の優里容疑者は香川で娘を虐待していたことが判っています。子どもを虐待してしまう親の病理、親の置かれている状況は簡単に解決する問題ではないのですから子供の保護支援同様親にも支援が必要で、そのためにどういうことが必要かが社会的課題になると思います。

 大事はないだろうという安心や忙しさの中で大丈夫と思いたい気持ちはわかりますが、人間を理解していない、解決できないでいる問題に目を閉じている冷淡ではないでしょうか。

 結愛ちゃんの命が奪われた悲しみは消えません。


 最近起こった新幹線内での死傷事件ですが、事件の経緯や犯人の小島一朗容疑者について、テレビなどの報道ですこし明らかになり始めています。

 事の重大さ、無実の関係ない人を殺傷する悪辣非道は許されない、絶対あってはならないこと、被害にあわれた方の気持ちを思うと言葉がありません。罪の深い行為であればあるほどなぜそういうことが起こされてしまうのかを考えなければならない。いつどこで被害者になるかわからない、自分に関係ない事件ではなくなっています。

 報道の範囲内でしか知ることはできないのですが、いくつかのことがとても気になりました。

 小島一朗容疑者は5歳で発達障害と診断されたと一部で報道されていますが事実でしょうか。中学では野球部に所属したが、いじめが原因で不登校になり、進路などを巡り父親と喧嘩して関係が悪化。家を出て、14歳から、母親が務める自立支援の施設で暮らし、そこから定時制高校に通っていたといいます。その後、名古屋の職業訓練校に入り各種資格を取得し、埼玉県の機械メンテナンスの会社に就職。職業訓練校での成績は優秀。就職してそこで人間関係がうまくいかず退社。約一年半前に母方の祖母が引き取り、養子になっています。父は実家を出てからの息子とほとんどあっていないそうです。

 私が気になったのは5歳で発達障害という診断がされていることです。どんな事情でそういう診断が出たのかはわかりませんが、5歳という年齢から考えると子供が受ける影響は大きかったのではないかと思われます。何か気になることがあって医者にかかったのかもしれませんがこの時の発達障害という診断が親と子の関係にどんな影響をあたえたのか、あるいは関係していないかもしれませんが考えてみることが必要ではないかと思います。

 秋山さと子さんのユング心理学を読むと外交的、内向的、さらに直観、感情、思考、感性などその働かせ方はそれぞれ固有で特異不得意個性がありますし、まして五歳という年齢は発達途中でバランスがとれているわけではない。発達障害などという診断を下すことに私は疑問を感じてしまいます。専門家でない何も知らない素人が言うことは間違っているかもしれませんが。

 さらに感じたのは親と子の関係です。子育てに悩むことは多くの人にとって特別ではないと思います。扱いの難しい子供、うまく理解できない子供、相性がよくない子などいろいろの子供がいますが、犯人の父も容疑者を変わった子だったと言っているので、父として難しいと思っていたのでしょうが、どんな子であっても親が手を放して見捨てられていると思うことはその子供の心に与える影響は大きいのではないでしょうか。親や周囲や社会が彼に対して扱いが難しいとか、否定的な感情を持った場合、その時点で彼の存在感は危機にさらされ、内省的になったり、自分を閉じたり、時には自己否定感がつよくなったりすることは考えられます。

 彼は何度か、あるいは何度も挫折を繰り返して自分への希望と否定の間で苦しみ、最後に自殺までどこかで考えていたようにみえます。

 報道によると職場での人間関係が理由で仕事をやめたころから自分から精神科に入院して医師に相談しています。

孤独でなおかつ孤立している場合、彼が対峙している世界は社会全体、自分自身さえも含みます。どこかでだれか社会とのつながりを見出す橋渡しができなかったのか悔やまれます。

 正義感が強くどちらかというと優しかったという小島一朗容疑者、彼は自分を裏切っていると思います。

 

 生きにくさの背景にあるものを考えることは日本の社会や教育、伝統文化を考えると同時に本人や家族が社会の中でどう生きるかの父性、強さや弱さの問題を自分の問題として考えなければならないことなのではと思います。

 












 

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言葉を探す 言葉にであう。 [自問自答]

 最近のニュース、新聞から


  わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい 

  

  つまって いるのです


  でんでんむしはある日「たいへんなこと」にきづく。


  このままではもう生きていけないと友だちに告げると、


  誰もが「あなたばかりじゃありません」と言う。

  

  でんでんむしは


 「わたしは わたしの かなしみを こらえて いかなきゃ ならない」


  と心に決めた。

             童話でんでんむしのかなしみ


    ( 朝日新聞  折々のことば   から)



      

  森友加計問題はもう幕引き、働き方改革法案、カジノ法案など、、、おそらくこれからの日本の将来に大きい影響を与えると思える重要法案、会期末が迫る中で、自公維新など一部野党の賛成で強行成立をめざしているようですね。疑問点、議論点が残るのですが、自公や維新など一部野党のもう議論は尽くされたという考えによって、自分たちが思う法案が成立していくのですね。挙句に党利党略と思える参議院議員6名増員する法案が突然提出され、今会期中の成立をはかるのだとか。この無茶ぶり正気を失っているのではと思うばかりの内容ですね。


 悲しい事件があとをたちません。


  東京都目黒区に住む5歳の少女が「もうおねがい ゆるして ゆるしてください」と書き残しながら親の虐待で死亡という事件が報じられました。


 東京に移る前香川県に住んでいた時、児童相談所が親の虐待を知って訪れているのは2016年9月からだということです。父親の船戸雄大容疑者は二度傷害罪で逮捕されています。


 この事件が明るみになって報道されてから、確かに「子どもを産む資格のない人間」「人間じゃない」「結愛と同じ苦しみを与えてやりたい」など父親への怒りが集まりました。私も何という親だと思います。人の心を持っているのかと思います。しかし、なぜこのように幼い命を虐待して殺してしまうようなことを親がするのか、そのことを考えなければこうした事件は後を絶たないと思います。

 香川で二度事件を起こした時、船戸容疑者は無職だったといいます。虐待に関する取材を続け「児童虐待を考える 社会は家族に何をしいてきたか」(朝日新書)の著者でもある杉山春が指摘するように社会的な力を失った親の、最も弱い者を標的にする家族病理にある家族が「何に苦しみ、どんな精神状態にあるのか、どんな支援があればよいのか」という視点がないのが今の社会ではないでしょうか。

 児童相談所も警察もこの事案を把握し、精神科の医者も知っていた、だが病理性のある家族への危機感が足りない、支援の方法もまだないに等しいことがまだいたいけな子供の命を守れなかったのだと思います。

 表面に現れた良い親か悪い親かだけをジャッジする社会では虐待はより発覚しにくく深刻化するということは確かだろうと思います。


 ニイルはいいました。暴力をふるう親も自分のことがわかっていないという意味のことをいっています。


 でんでんむしは自分の哀しみでもう生きていくことができないところまで来たことに気づきます。

 自分の苦しさを表現することばをさがします。

 そこで出会った言葉によってでんでんむしは悲しみをこらえていかなければと決意します。


 ほかにこんな報道もありました。


 神戸市立中学三年の女子生徒が2016年自殺、自殺をうかがわせる他生徒からの聞き取りメモがあったのに、市の教育委員会の支持でメモが隠蔽されたというニュース。

 子どもの声、命と向き合う教育があまりに鈍感、無責任なのではと思います。


 言葉をさがす 言葉に出会うことはとても大切なことなのだと思っています。

 幻冬舎社長の  の言葉

 適切な言葉を選べなければ、深い思考はできない。

 表現することはおろか、悩むことすらできない。

 人は自分の言葉を獲得することによって人生を生き始める。


 ああ、そうなのですねぇ


 


 

 


 


 


 

 

  





  



  最近のニュースから伝わってくることは失望や悲しみを通り越して絶望に近い気持ちにさせられます。人間はどこへいくの。こんなこと本当はあまり考えたくないのです。

「この辺で根本から考えないと日本という国がダメになる」という河合隼雄氏や林竹二氏など多くの人が数十年前に語っていた言葉を思い出します。

 戦後の七十年は自分が生きてきた時間でした。その間に変わってきたこと、感じてきたこと、そして今考えること。

 なぜかでんでんむしのかなしみが心にしみます。

 絶望に近い気持ちの中でも生きることは続くのです。




 音楽の世界に疎いので安室奈美恵さんについて名前は知っている程度で関心がふかいというわけではなかったのですが。昨日のテレビでのインタビューを聞いていて彼女は本当に素晴らしい人だ、確かにすごい女性だと思いました。今までになかったような人、そしてこれからの新しい世代の出現を感じさせられます。安室さんは本来は面倒くさい人間なのだそうですが「シンプルに」を考えているという。歌手としての活動も生きることだが、「生きること」が彼女の主眼で歌手をやめても生きることはかわらないと。不必要なものをどんどん除いて自分に大切なものをシンプルにという。質問者が世間的な価値にとらわれている質問と感じさせられました。

 何が大切で何が不必要なのか選択することは難しい作業なのだと思いますが、安室さんが選んだ先にこれからどんな世界がひろがるのだろうかと未知の世界を見せてくれるのではと思わされました。


 

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自己責任を考える [自問自答]

 自己責任って何だろうな、何度も繰り返し考えてきた。

「親らしいことなにもしないで」それはそのときのむすめの本音だったのだといまはわかる。本音を言ってくれたありがとう。

親らしいこと何もしないでと言われた時、「私だって一生懸命やってきたわ」と言ったのを覚えている。「そうやっていつもお母さんは上から目線なのよ」

 忙しい生活の中でできるだけのことをやってきたのだからとそれは親の思いでしかない。子どもをもってお母さんの大変さがわかるようになったけれどねと娘はいう。

 受け止め方の乖離は世界中にあふれていると思う。

一生懸命やってきたつもりなのに、親に対して何なのと思う人もいるかもしれないが、私が特別ひどい親だったというわけではなかったとしても子供の批判には意味がある。

「なんで生まれてきたのかわからない。生まれてなんか来ない方がよかった」

そういう言葉を何度も聞いたし、それが彼の本当の気持ちでとても苦しんでいるということもわかっていた。それに対して自分は何ができただろうか。

 友田明美さんの言葉に「親としても自分を問われる日々」という言葉がある。親として問われる日々はそれから何年も続いた。そして今考えることの一つが自己責任の意味だ。

 自己責任とはなんだろうか。

 その時思い浮かべるのはお釈迦さまの「サイの角のように一人歩め」という言葉。

 結局人は自分についてしっかり考えることしかできないのではないか。自分の命を大切に粗末にしないで生きるということの中に自分で自分を傷つけたり、犯したりする危機、過ちがある。同時に自分の命を粗末にしない、大切にすることは他者の命を大切にすることと同じなのではないだろうかと思う。


 今、社会を席捲している自己責任論、なんとも消化が悪く、ゴロゴロ残るのです。と同時にあふれかえるような無責任も。引き続いて考えたい問題です。


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[浅いところで理解している] 前回に続いて

 前回に続いて、分断の背景を考えてみたいと思いました。

 

 新聞を取るのをやめようかなと思ったことが何年かまえにありました。経費を抑えたいからだったのですが、でもやっぱり継続していてよかったと思います。一瞬で消えてしまうテレビは見なければそれまでだし、大切なことも通り過ぎていくだけになりやすい。テレビは変化の激しい時代に即しているツールなのだなあと思います。


 前回に続いて分断と共生についていくつかのことを考えてみたいと思います。


 朝日新聞 5月26日 be on Saturdayに暴力や暴言など親の不適切なかかわりは子どもの脳を傷つけるという友田明美さん(小児精神科医)の研究がのっていました。

 友田明美さんが虐待と初めてかかわったのは研修医の時で、運ばれてきた3歳の男の子は頭蓋内出血で瀕死の状態。体中タバコを押し付けられたやけど跡があったということです。3日後男の子は息を引き取りました。

 虐待に向き合う転機は親となり、仕事を続けながら 二人の娘をそだてていたとき、娘は何をしても泣き続け、いうこと聞かなかったり、、、愛していても可愛いと思えなかったこともあったといいます。親としての自分を問われる日々のなかで最先端の脳科学を研究するためアメリアに留学し、虐待が脳に与える影響についての研究に携わる中で、暴力や暴言、家庭内暴力の目撃など大人の不適切なかかわりによって子供の脳が変形するという衝撃的な結果をえたときといいます。

 言葉の暴力や体罰、ネグレクト、兄弟やほかの子供との比較や貶めなど、親の不適切なかかわりが脳に傷を与え、それらが安定した環境や愛着の再形成ができないまま進めば、感情の抑制ができなかったり、暴力的になったり、人とうまく関係が取れなかったり、鬱や薬物依存になったりというしっぺ返しを受けることになる。


 上記の研究結果は自分の生活体験、子育て、日々の事件、ニュースなどからも理解できると思いました。

 強いストレスがかかると苦しみを回避するかのように脳が変形、暴言を受けるとコミュニケイションのカギを握る聴覚野が、家庭内暴力や性的虐待を受けたときは「視覚野」が縮小、愛情がないネグレクトなどでは「前頭野」が委縮し、感情や思考をコントロールし行動抑制力にかかわる部分もがちいさくなっていたことがわかっています。

 友田さんも言われているように親も一生懸命、不適切なかかわりの経験のない親なんてないのだと思います。だからこそ、正しく理解し、気づかなければならない。

 発達障害とかADHDとかいわれることが多くなりました。わたしはそういう病気があるのではない、病気があるというより、本人や周囲が困っている状況があって、その状況がどんな原因でおこっているのか、改善のためにどういう環境や対応が必要なのかということなのではないかと上記の研究からもわかるように思います。

 ごくまれに生来的な障害を持っている場合もあるのかもしれませんが。

 誰もがある意味発達障害なのだと思います。個性的特異、でこぼこ、えびつな存在、それを病気とはいわない。ただ自分で困ることはできるだけ気づきたいし、正しく理解したいと思います。どこで自分が間違っているかもしれない、そういう不安はいつもあるからいつも謙虚でなければならないと思います。

 

 

 少子化の背景を考えるとき、生き方の多様化、男と女の関係の多様化、子育てをする上での経済的、社会的困難、親子、家族関係の難しさなどがあるのではないかと思うのですが、

そうした社会の状況があるとしても、もはともと男と女が力を合わせて家庭を作り次の世代を育てることは自然な姿ではないかと思います。これからの社会がそれができる社会であってほしい。

 一部に復活してきている戦前の家庭教育に戻すことが解決になるというような漠然とした空気感について考えてみたいと思います。

 以前書いた親となって考えたことのあれこれにも書いたことのある林竹二さんは教育とは「共に生きることである」と言っています。

「世間的尺度で測って価値のあるものをもっているからそれを大事にして探し当てて引き出すということではないのです。子どもはみんなそれぞれにかけがえのない存在、だからなんとしてでも子供がみんなそれぞれに人間らしく生きていくのに役立つ力を獲得するのを助けるためにできるだけのことをするのが教師の仕事」といわれています。

「そして子供の気持ちになって考えて見る」

 宮城大学学長を退職した後全国の学校を回って八年間くらい授業をした林先生は「授業に関するすべてのことを子どもから学んだ。それが私の誇りでもある。教師からは何も学ぶことができなかった」とも。

林先生の言葉をもう少し紹介します。

 

 仏教でいう輪廻は生命を持ったものが根底において一つのものだと感じているところから出ている。キリスト教は神の被造物という形で、万物が一つのところから出いる、それぞれに個性をもって生きていくものの平等という面が強い。それは命というものは人間が作ることができないものというところに究極の根源があるように思うんです。、、、

 私は、生命に対する畏敬だけが教育を可能にする、ネガティブに言えば、生命に対する畏敬のないところに教育はあり得ないと考えている。


 この林先生の言葉、生命に対する畏敬のないところに教育はあり得ないという言葉、心に刻んで考えたいと思いました。


 問題は戦前と戦後教育の違いというところにあるのではないということ、どんな時代でも親子兄弟、家族、地域などつながりや愛情の上に営まれるのは人間の本来的なものだと思いますし、それは時代を問わず底を流れています。しかし、時代による統治的考えはあり、戦前の教育は上からの統治的考えが強かった。その結果多くの命がうばわれていったのです。

 林先生は教育史を勉強したり、教えたりしていた昔の経験から、子供は教えられる対象、あるいは教化の対象で、国家の教育思想を子どもに強制する仕事だったといわれています。子供一人ひとりの生きる力を大切にしその上に国をつくるところに主眼はなく、子どもは国家のために育てられたし、それがその子の幸せでもあり目標でもあったのでしょう。

 戦後教育が目指したのは一人ひとりの個人に視点をあてた考えだったかもしれません。

 しかしそれは道半ば、簡単ではない、一人ひとりを大切に育てるという考えがいつ失われるかわからないと思います。

 子どもの気持ちを考えることがなければ悲しみを共有するという精神構造が欠落してしまいます。もともと人間は弱いものなんだということが判らない。だからずいぶんむごい、冷たい仕打ちをしても、そのことが冷たいこととも何とも思わない恐ろしいタイプの人間ができてしまう。今分断が進む背景にこんな理由のひとつがあるように思うのですが。 


 

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浅いところで判断している [雑感]


    、一輪蓮の花.JPG





 忙しいという字は心がなくなると書きます。子育てと家事と仕事、仕事先は片道二時間近くかかるところで、文字通り一寸刻みのような日々、そんな日が毎日ではなく、休日は子連れで遊びに出かけることも多かったのですが。ウサギ小屋に寝て休みなく働く日本人と言われた高度成長の時代からバブルがはじける前後まで。兎も角日常をこなすことになると深く考えることは少なくなります。家事についても子供たちのことについても生活全般に。今考えると浅くしか考えなかった。問題を残し積み上げたことにつながることがわかります。

 今国会で新しい働き方改革法案が成立しようとしていますが、この議論は詰められたのでしょうか。とても疑問が残るところです。今日明日にも強行採決されるらしい。

 カジノ実施法案も様々な観点から賛否両論があって充分国民的な討論が必要ではないでしょうか。

 なぜそんなに拙速に急ぐのでしょう。早く早く、急いで急いで、時間がないそれが今の世界、社会の主流のようです。そんなに急いで人間どこへいくのですか。浅い理解で判断することがどんどん進むようです。

 勘違い、思い込み、独りよがり、偏見、誤解の固定化、こういうことは浅いところで判断してしまう人の習性なのでしょうか。

多くの不幸は誤解から始まるといったロマン・ロランの言葉が思い出されます。

昔の子育ては良かったという声とともに、戦前の家父長的父性の復権や道徳教育、愛国心教育の復活という意見が自民党を中心にでています。それは今新しくではなく、戦前からある考えが今に引き継がれ、その声が強くなっているのだと思います。 

 非行、薬物をはじめとするいろいろの依存症、引き込もり、自殺、虐待、モラルハザードなど深刻な問題の根は愛国心のような形にではなく、問題の本質に迫まることが求められているのではと思います。


 孤立化が進む生という問題、絆や共同体の復活という問題、主体的であることと共生など考えたい問題は多いです。

 


 

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国会審議について思う

 ブログをやめたいと思う理由は国会の状況を見て失望感ばかりが大きくなってしまうからです。そこで感じることはかなり大きな価値観の対立と対立の上で、政府や与党一部野党が国会の多数を占めるために議論が問題の本質には届かないまま法案だけが成立していく国会の姿です。議論ができない理由を野党の反対のための反対という国会運営に協力しない野党の責任と考える世論の一部もありますが、野党の反対にあるのではないと思います。多数を占めたら数でどうにでもなる、無理を通す、隠蔽する、行政、司法までゆがめてもいいという政治になったら、その影響はどうなるでしょう。民主主義の根底がなくなっているということでしょう。

 

 是枝監督作品「万引き家族」がカンヌ映画祭でパルムドール賞を受賞したそうです。カンヌ映画祭で最高の賞をもらった日本映画は21年ぶりということですが、何よりおめでたいことと思います。世界の映画人から高い評価を受けたということですが、監督との一門一答を朝日新聞で読みました。


 監督の言葉、

 「社会に対するメッセージを伝えるために映画を撮ったことはない。僕が描いた家族とどう向き合い、見過ごしてしまうような環境や感情をどう丁寧にすくいとるかだけを考えようと思った。どんなメッセージかは受け取る側が決めることではないかと思いながら作っている」

 とても共感、信頼が持てる姿勢だと思います。


 審査委員長が「見えない人々」について授賞式でかたっていることについて是枝監督は 「社会から見えない人々の可視化」ということについて監督は「誰もしらない」も社会からみえなくなっている子どもたちをどう可視化するかを考えながら撮った映画だったが、スタンスは同じ。それを見過ごしてしまう、もしくは目を背けてしまいがちな人々をどう可視化するかが、常に自分の中心に置いているスタンス。

と話されています。


 人が見ているものはその人が見ているものがすべてなのですから、自分がみているもの、見えているもののほかに無限の広い世界があることを常に自覚することが必要だろうと思います。

 見過ごすか、目を背けてしまうところから始まる無理解、偏見、冷たい壁、分断がどんな影響を与えるのか、私たちは本当にはよくわかっていないのかもしれません。

利己的な欲望の手放しの承認と弱肉強食の競争原理、自己責任論の中で、分断が進んでいるのでしょうか。それは一つの力の流れとしてあると思うのですが、それが主流であってほしくないと思います。

 自分の視野ということについて、最近読んでいた林竹二さんの本で、親や教師というものがどれだけ子供の心に気ついているか、子供と同じ気持ちになって考えているかということを言われている箇所が何度も出てきて、私も子供たちを育てるにあたって、どれくらい子どもと同じ気持ちになって考えてみることをしたろうかと、いつもいつもではなくても子供が何か問題にぶつかっているとき、本当に彼らの気持ちになって考えていたらきっと力になれていたのではないかと思ったりしました。と言っても後悔さきに立たずですけれど。

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時代(社会)と責任という問題 [自問自答]



 時代と個人という関係の問題は集団を形成し始めた文明の誕生から始まっていることなのだと思います。集団を形成して生存し発展してきた人間社会が何千年かを経過して人間の幸福という観点から、どう見ることができるのでしょうか。一人ひとりの人生からみてはどうでしょうか。それについての答えを見つけることは簡単ではないように思います。


 昨日は駒沢大学で教えていらっしゃる千葉公慈師の仏教・禅の講話をききにいきました。

 僧侶の講話をじかに聞くのは70年このかたはじめてなのです。祖母や父母の葬式や法事をはじめ何度もお坊さんにあっているのですが、仏教について何を聞いたか記憶がないのです。

祖母は信心深い人だったのだと思いますが、一年を通して四季折々の家につたわる行事や祭礼をかかしませんでした。そんな祖母を身近にしながら、私は少しも信仰心のようなものは皆無、無宗教。信仰ではないのですが、この年令になって釈迦の説いた悟りについて知りたくなっています。仏教を大学で教えていらっしゃる千葉先生の話はとても面白かった、さらに仏教について勉強したくなりました。


 世の中がどう変化しても、時代がどう変わっても、自分はどう生きるか、何をするかということはあるのだろうと思います。


 帰り道公園のベンチで子どもの頃の庭の風景を思い出して


 はなしょうぶ.JPG


  緑影に花菖蒲咲く幼き日


 


 と一句。

  才能なし?それとも凡人査定かな?

 

 


 

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新聞の言葉から [雑感]

 

 抵抗はかって国家による強制や動員に向けられていたが、現在、脅威はむしろ、問題関心を共有できないという、人々の分断のほうにある。安全の過度の強調も「自己隔離」として人々の間で隔たりを拡げるよう作用している。朝日新聞、「折々の言葉」から


 なぜ時代とともに不安のほうが強くなっているのだろうと思っていました。もし自分に子供や孫が居なかったら、きっとあまり将来などを心配したりしていなかったろうと思います。それくらいわたしも自分中心なのです。もう長くない命だから一日一日が平穏ならそれでいいと。でも今はどの小さい子供を見ても彼らや彼女たちの将来はどうなのだろうと思います。そんなこと考える必要もないという人も多いかもしれませんし、楽観的に心配など少しもしないという人もあるでしょう。

 考えたとしても何ができるわけでもない、自分だって何ができる?と思います。せいぜい家族に迷惑をかけないくらい元気で、見守るくらいでしょうか。

 

 折々の言葉にあるように問題関心への共有が難しい分断が進んでいるのではないか、このままで進むとどうなるのかという危惧。世界も同じですね。利害が対立する世界をうまく調整しつつリードする指導者があちこちにいなければどうなってしまうかわかりません。

 今国会でも有効な議論が進まないまま、政権が思う政策が進められています。

 果たして心配な問題はないのでしょうか。丁寧な説明、国民の理解を測るといいつつ、なぜかむなしいばかりです。元来対話が成り立つのはお互いの間で何がよいか、真理を探したいという共通の関心があって成立するもの。初めから形ばかりで本心は相手の意見など必要ないと思うのなら対話にはならないのですから。

 こういう問題関心共有のなさはどこから始まっているのでしょうね。根はとても深いように思います。




 

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記録する

 昨日はクリニックに行って検査結果を確認しました。毎年市の健康診断は受けています。気を付けているのは、生活習慣病となるような数値。今年は二つの数値に赤信号が出ていたので、近くのクリニックで4月になって再検査を受けました。

 いろいろよくない数値が出ています。悪くなっていますよ。いろいろ気になることがあったので。やっぱり。

 中性脂肪、悪玉コレステロールが高くなっているのです。食事や運動で下げようと思っていたのですが、あまり薬に頼りたくないのを知っている先生、体重を5キロ減らしましょう。も少し自分で頑張ってみますか?と。

 中性脂肪の急激な上昇や悪玉コレステロールの管理は自分にできる運動や食事だけでは無理かもしれないと思いましたので、下げる薬を飲んで様子をみることにしました。

 健康ノートを作って体温や血圧、体重測定結果なども記録するようになって10年くらいになります。その頃の体重から比べると7キロ増、その頃のズボンがはけないのもやっぱりショックですね。

 キチンと確認してよった。

 記録は大切ですね。日記や読書メモなどでも繰り返し見直さないと価値は半減なのですね。自分の健康は自分だけのものではないことを肝に銘じつつ、今日から一歩です。





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